ナシゴレンを食べた夜、
スカルノハッタ空港で
その男と別れた、はずだった。
反りが合う、という。お互いに気心が通じ合う、波長が合うという意味で用いられる言葉だが、「反り」というのは刀と鞘のことなのだとか。双方の反り具合が合わないと刀はうまく収まらない。逆に反りが合っているとしっくりと収まる。
田口裕一会長にとって、篠原央典(ひろちか)は反りが合う相手だった。篠原はバケットランドの立ち上げで取引関係のできた住友商事の商社マンである。年齢はひと回り以上も下だったが、彼には年齢差を感じさせないところがあった。いつの間にか自然と仲良くなり、いつの間にか気の置けない友人となっていた。田口会長が東京に行くたび連絡をとり、都合が合えば必ず一緒に夕飯を食べるという間柄だった。
そんな篠原がある日、「住友商事を辞めるんです」と打ち明けた。シンガポール在住の友人から、インドネシアで問題を抱えている会社の再建を手伝ってほしいと言われたのだという。篠原自身、インドネシアには駐在経験があり、馴染みも浅からぬ国とあって退社の意思はすでに固まっていた。
「そんなにインドネシアがいいって言うのなら、一度連れて行ってみてくれる?」
かくして田口会長は篠原とともに初めてインドネシアを訪れた。篠原がとってくれたホテルはジャカルタの[ザ・ダルマワンサ]。コロニアル様式にジャワ様式を織り交ぜた贅沢な雰囲気のリゾートホテルだった。夜は中華の高級レストランで伊勢海老の刺身に舌鼓をうった。田口会長は篠原が段取りしてくれたいろいろを堪能した。
なかなか面白い国だった。だが、当時のインドネシアに、タグチがビジネスを展開する余地があるとは思えなかった。同じ東南アジアのシンガポールでタグチの圧砕機を売り込んでいたというのもあって、インドネシアでも可能性があればと考えていた。しかし、道路や防災などのインフラに国が力を入れようとする気配はまったく感じられなかったのだった。
帰国当日。篠原がスカルノ・ハッタ空港まで見送りに来てくれた。空港からすぐのところにあるゴルフ場のクラブハウスでナシゴレン(インドネシア料理の焼飯)の夕飯を食べた。まさに最後の晩餐。田口会長はテーブルの向こうでナシゴレンを口に運ぶ篠原を見ながらこう思ったという。
(この男はこの国で生きていく。もう会うこともないだろう)
見送ってくれた空港でも会話はいつものようで、別れを悲しむような様子はまったくなかった。だが、言葉を交わすのもそれが最後だと、お互いよくわかっていた。
以下はそのインドネシアの旅から4年後のことである。倉敷にある精密加工の大松精機の松永光弘社長が、突然田口会長を訪ねてきた。顔を見るのは実に数年ぶり。手にはインドネシアに設立した工場の現地での除幕式への招待状があった。
(……インドネシア、とな?)
すぐに頭に浮かんだのは、篠原の顔だった。この会に出席すれば久々に篠原と会える、と田口会長が思った矢先、間をおかず篠原本人から電話があった。
「働いていた新会社を辞めたいんです、雇ってくれませんか?」
以後の結果を簡単に記すと、大松精機のインドネシア工場にタグチが出資することで合意した。タグチはアジアでの生産拠点を得るに至り、さらにここで生産した製品をアジアで販売する会社を同じインドネシアに創設した。その販売会社の社長に就任したのが篠原というわけだ。
田口会長と篠原との反りのよさはいまもって続いている、に違いない。ちなみに日本刀の場合、経年で反りが合わなくなることはない。会長にとっては、今やアジア戦略の貴重な懐刀(ふところがたな)である。
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